|
|
 |
| 福原 義春(東京都写真美術館 館長・株式会社資生堂 名誉会長) |
「ニューヨークにいらっしゃったら、HASHIにお会いになって下さい。」亡くなってしまった大手広告代理店のK部長がそう云った。そのころ、ぼくは外国部長でKさんは資生堂担当の部長だった。
Kさんは人材発見の名人であった。今はメジャーになった沢山の有名人が、彼の人脈で拾われ、デビューの機会を与えられて育ったのだ。しかもまた、彼は発掘した才能と誰かを結びつける不思議なほどのフィクサーの能力を持っていた。
ぼくはまた聞いた。「HASHIとは何者ですか。お会いして何かあるのでしょうか。」Kさんは、HASHIとは本名・橋村奉臣、今やニューヨークの広告写真の第一線で活躍していること、そして会っておかれたら、いつか何かのお役に立つでしょう、と答えた。
ニューヨークで連絡をとると、あなたのポートレートを撮るからスタジオに来てくれとのことであった。整然としているとはとてもいえないスタジオに行くと、リンホフかハッセルブラッドか忘れたが、途端に短焦点レンズをつけて文字通り迫ってきて撮りまくった。これがぼくの大サイズポートレートの最初の一枚となった。やがて、彼の今の仕事ぶりについてのプレゼンテーションがマシンガンのように始まった。スミノフのウオッカなど、シズリングな広告写真、国連の記念切手に採用された虹の一枚など未だに脳裏に残っている。その時は知らなかったが、彼はその当時、広告予算の少なかった資生堂アメリカの為にパンフレットなどの商業写真の仕事を請け負ってくれてもいたのだ。彼は、これからあなたの写真を毎年撮ってゆきたいとも云い、また私がポートレートを撮っている人はみんな成功者になっているのだと気味の悪いようなことを云った。しかし実際の問題として毎年時間を割いて彼のスタジオに通うというようなことが私にできるはずはなかった。そのポートレートのシリーズは一枚で終わった。
二十数年経って彼が突然東京に現れた。そして今度はフィルムのカメラとデジタルのカメラを両刀のように使い、例によって機関銃かマシンガンのように撮り続けた。撮りながらも今の仕事のこと、写真集を出すつもりになったことなどを立て続けにしゃべった。それらのプリントが送られてきたが、ぼくの風貌は見事に十年の星霜を経たものとなっていた。
ぼくは今もって彼のことを全部知ったわけではない。理解しているのは、高度なテクニックを駆使するけれども、単なるテクニシャンではなくて大変な直感力に支えられていること、そしてその行動もまた、彼の作品作りそのもののようであることなどだ。一度決めたらテコでも動かない頑固そうな風貌の中に、時おりどこか少年のような表情を見せる彼の第一印象は今もって変わっていない。しかし円熟してきたことは確かだ。積み重ねた彼の作品は大変な量になるし、質的にもまた充実したものとなった。ぼくの直感では決してこれは最後の作品集ではない。むしろ次のシリーズを作るためのエネルギー源になるものだと思った。
2006年秋、そのHASHIが東京都写真美術館で個展を開催する。
HASHIの写真家としての今日に至るまでの実績や今後の創作活動の方向性を作品の展示という形で示すことは勿論、40年近く前に単身渡米し熾烈な競争がひしめくニューヨークの広告業界に身を投じただけでなく、そこで一流のクリエイターとして確固たるポジションを築き上げ、60歳を迎えた今なお更に発展を続けているという事実が、バブルの崩壊以降あまり明るいニュースのない日本社会に一筋の明るい光となって差し込んでくるような気がする。
世界を舞台に活躍する日本人写真家、HASHI(橋村奉臣)の作品とその生きようは、老若男女を問わず多くの日本人にとって新鮮であり、また彼らの心を捉えてやまないことをぼくは確信している。 |
|
 |
 |
 |
|
|