
生きて帰れると思わなかったビルマ戦線から、1946年(昭和21年)7月に生還した私の胸裡には、いつもビルマの国のことがあった。40数年の時の経過があるのに、ビルマに行きたいとの念願は募るばかりだった。外国人の入国制限が緩められた頃から心臓を悪くしていた私に、ようやく医師からの海外渡航の許しが出たのは、1987年の春のことであった。しかしその季節のビルマは炎暑の盛りである。
けれども私には、涼季まで待つことが出来なかった。すでに、いくたびもビルマでの慰霊を果たしている戦友がいるのに、私はまだ訪れていない。亡き戦友の魂が私を招いているーー私はその切ない思いに励まされて、拙著「死んだらいかん」を書いた。それだけに、今更ではあるがじっとしておれないのである。それに私たち日本人が受けた、ビルマの人たちの温情にも、お礼を申さなければならない、切なる希いがあった。
幸い、ニューヨークに在住する私の女婿の写真家のHASHIが、私の健康を気づかうあまり、"鎮魂の旅"に同行することを申し出てくれた。多忙な彼が、単身の旅を思いやってくれたのが何よりもうれしかった。こうして私は、雨季直前の4月27日、再びビルマの土を踏むことができたのである。
バンコクからビルマ航空機で1時間、首都ラングーンのミンガラドン空港に降り立った私たちは、シャン・バッグ(現地人の肩にかける袋)を貰って肩にかけると、遂にビルマに来たぞという、よろこびの興奮と安らぎがあふれてきた。
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私たちは先ずジャンドウの日本人墓地を訪ねるめ、マーケットの花屋で菊の花を求めた。18万5千人の戦没者に思いを馳せ、「日本人合同慰霊之碑」に敬虔な祈りを捧げた。このとき、日本から一緒にやって来ていた娘さんが、色あざやかな鯉のぼりをお供えしたので、一行の心がなごやいだ。
金色に輝くシュエダゴン・パコダや市街の見物の後、私は古くからあるもう一つのタモエ日本人墓地を訪ねた。ここにはカラユキさんのお墓があり、敗戦の直後には「大東亜戦争陣没英霊之碑」も建立されているのに、訪ねる人も少ないのか、荒れているのがしのびなかった。
首都ラングーンでは、さすがに市庁舎や独立記念塔など、デザインも美しい建築に目を見はった。しかし私のなりよりもうれしかったのは、戦争突入当時日本軍を歓迎してくれた懐かしいビルマのおばさんたちが、昔のままのやさしい冴えた瞳で随所に接してくれたことであった。
翌日、私の最大の念願である、中部ビルマ日本軍最後の陣としてたてこもった、ポパ山を訪れるために、パガンに飛んだ。パガン王朝800年昔の遺跡とパコダはイラワジ河の静寂の暮景に沈んでいく。この地の東方に標高1,518メートルのポパ山がある。
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翌朝、ポパ山の旧陣地を探索するために、私とHASHIはチャーターした車でホテルを出発した。途中、買い出しでもあろうか、色とりどりの民族衣装の婦人たち、羊飼いの母と子、農産物を豊かに積んだ牛車など、のどかなビルマの生活の風物に出会う。やがて半砂漠の廣漠の地に出ると、サトウ椰子の木に竹の梯子をかけて、瓶を腰につけた青年が登っているのが目にとび込んできた。私はこの瓶の椰子汁が発酵するとも知らず、一気に飲み過ごした痛い思い出を忘れてはいなかった。このあたりは、ポパ山陣地から特別攻撃した時の風景そっくりで、私は陣地が近いと胸をおどらせた。
いつの間にか、雲烟に蔽われていた空が、明るい風に流れて、私たちの前に忽然とポパ山の項が姿を見せた。私が胸に描いていた山景を遥かに超える、大らかな眺めに思わず息を呑んだ。戦さの中で私は山の全容を見ることがなかったのだ。ポパの山は、私たちが見守る中で再び雲の中に閉ざされていった。
私たちはひたすら山に向かって車を走らせた。が、案内人はポパの名刹を目指し、私の期待する陣地の情景と重なり合ってはくれない。私たちは近くの町に引き返すことになった。しかし幸運にもその町で、「兄が日本部隊のことをよく知っている」という1人のビルマの婦人に出会うことができた。その親切な計らいによって、私たちは日本軍がいたというテトマ村に向かった。
この付近は丘陵で岩石も多く、私が求める地形に似ている。テトマ村では集会所に村長が出迎えてくれた。彼は、村はずれの、棘草の茂る半砂地にただ1本立つ大きな木のそばに、私たちを案内した。その木の傍には、小さな白い大理石が据えられていた。付近はよく清掃されている。訝って覗いてみると、何とその石は日本軍の鎮魂碑であった。この草原になぜ鎮魂碑があるのであろうか。碑をよく見ると<独歩543大隊>と刻されている。私はこの場所から考え隣接部隊の碑であることに思い及び、戦死者と生存者との魂に触れた思いで、私は家から携えてきた数珠をここに埋めることを決意した。小さな穴はすぐ掘れると思ったのに、手にした石片では掘り進めない。突然、つき上げるように抵抗し難い血がたぎり、涙滂沱し、手も動かない。戦場でいき抜こうとしながら死んでいったその魂を、死ぬまで背負い続けねばならぬことを思い、慟哭した。あとで知ったのであるが、この大理石の碑をテトマ村の人々が地区委員会の許可を得て建立してくれた因縁の美談に深く感銘した。
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ラングーンへの帰路、機中から見るシャン高原の畑土は、赤かった。機はビルマ中央部を流れるシッタン河に沿って南下する。私は機中から飽くことなく、蛇行する河を見つめ、あの雨中渡河の戦いで、多くの無駄死が出たことへの憤りがこみ上げ、ただ黙し、冥福を祈った。
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思いがけないHASHIの同行を得て、私は"鎮魂の旅"を安んじて果たすことができた。彼は続いて、再び雨季の7月にもビルマを訪ねてくれたのである。その折々の記録が小さな一冊の写真集にまとめられることを知って、感無量の思いである。
HASHIは旅の中で、素直に裸のビルマの生活を見つめてくれた。彼の写真を見ていると、ビルマの人々が40数年前と少しも変わらず、自然と親しみ心豊かに暮らしている姿がうかがえてくる。素朴な瞳、細やかな情緒をはぐくんでいるビルマの人々が、ここには生き生きと写されている。ありがとう。
ビルマ国のデモクラシーと人々の、新しい豊かな生活を心から祈りたい。
ー1989年(平成元年)2月
芥川 将 あくたがわ・すすむ
大正3年京都生まれ、早稲田大学専門部政治経済科卒。 昭和12年大阪毎日新聞社入社。16年応招、仏印に渡りビルマ戦線に従軍。21年7月復員。毎日新聞東京本社営業局長、西部本社代表、常務取締役、中部本社代表、常勤監査役を経て、毎日新聞社社友。著書「今来た道」「死んだらいかん」 編薯「第ニ中隊ビルマ線記」。1992年4月24日永眠。