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青柳正規HASHIGRAPHYが写し出すローマの時空
世界の都市を人間にたとえるならどうなるだろう。輝くような感性と才気をうちに秘めながら、洗練された振る舞いで相手をいかようにでも翻弄できる淑女、それがパリであるとするなら、ロンドンは崇高低俗そのいずれにも対応できる鷹揚な紳士といったところだろうか。そうであるならローマは、豊かな人生経験をその深い皺のひとつひとつにしのばせている温厚な老人といえるのかもしれない。
老人がひとりごとのように語る話は、寒い朝、パラティーノの丘をつつみこむ靄のように曖昧模糊として含蓄が深い。小さな集落に過ぎなかったローマが瞬く間に地中海世界を支配する世界帝国に膨張したかと思えば、紀元4世紀にはコンスタンティノポリスに首都が移り、かつての都ローマにはやがて数万の住民しかいない集落になりさがる。それでもローマン・カソリックの大本山としてヨーロッパ各地から信者がおしよせ、古代の栄光が語りつがれ、やがてルネサンス、バロックの時代には街のいたるところに邸館や教会堂が造られ、ふたたび古代の栄光を再現する。イタリアの首都、そして永遠の都としていまもローマは不思議な存在感をただよわせている。栄華盛衰の激しさをいやというほど味わったローマという老人は、いまは穏やかな年金生活に入ったかのようである。
そんな味わい深いローマの全貌を眺めたいときは、ヴァティカンの南にあるジャニコロの丘か、モンテ・マリオに登ることをお勧めする。ジャニコロの丘からはパンテオンの丸い屋根やサンタ・マリア・マッジョーレ教会堂が望めるし、モンテ・マリオからはテヴェレ川の蛇行する川筋やヴィッラ・ボルゲーゼの緑が手にとるように見えるからである。いまとなっては「七つの丘の都」といわれたローマの一つ一つの丘を見分けることはむずかしくなってしまったが、アルバーノ湖などがある東南の丘陵地帯から続く小高い平地が、テヴェレ川の直前でその川面とつじつまを合わせるかのように傾斜していることがすくなくともわかるはずである。
西をモンテ・マリオとジャニコロの丘によって、東を七つの丘によって挟まれた低地を二分するように流れるテヴェレ川は北から南へ逆S字形に蛇行しており、弧を描く川筋によって囲まれた南の左岸低地をカンポ・マルツィオという。そこは紀元前1世紀から急速に市街地化した当時の新開地であり、現在は中世以来の古い面影をもっともよく伝えている旧市街地である。このカンポ・マルツィオのほぼ中央にパンテオンとその広場がある。紀元2世紀前半、皇帝ハドアリアヌスによって建設された汎神殿は、キリスト教時代には殉教者に捧げられたためほぼ完璧な状態で保存されている。ナイル川上流から運ばれた御影石の円柱が正面玄関をかざり、直径42.8メートルの円堂が内陣を構成している。コンクリート造りの建築技術のすばらしさは当然であるが、ぜひ確認していただきたいのは、パンテオン正面階段の両脇にある空堀の深さである。空堀の底には古代の地表面が露呈しており、現在の広場の石畳と3メートルほどの高低差がある。度重なるテヴェレ川の氾濫でしだいに地表面が高くなった結果である。
パンテオン広場からすぐのところにナヴォーナ広場がある。12月にはいるとプレセーペなどのクリスマス用品を並べた露店や大道芸人たちでごった返すこの広場は、古代の戦車競技場の輪郭をそのままにのこしている。
ナヴォーナ広場から南へ向かうとヴィットリオ・エマヌエーレ大通りにでる。この通りを東にたどると、ローマっ子が「デコレーション・ケーキ」と呼ぶヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂にでる。この記念堂は小高い丘の北斜面を利用して造られており、その小高い丘こそが古代ローマ人の精神的支えだったカピトリーノ丘であり、そのさらに南に広がるのがローマ帝国のヘソともいえるフォロ・ロマーノである。カエサルやマルクス・アントニウス、それにアウグストゥスたちが市民に語りかけたあの広場である。
フォロ・ロマーノから南東に向かって約20分ほど歩くと、松の緑が緑陰をつくる公園にでる。公園の南側に目をこらすと煉瓦造りの大きな壁が見える。この壁こそがカラカラ浴場を取り囲んでいる周壁なのである。一度に2,000人もの入浴客を収容できたというローマ世界最大の公共浴場の偉容を今でもしのぶことができる。浴場の巨大さに圧倒された興奮を静めるかのように、さらに南へ下ると聖セバスティアーノ門に至り、そこからいよいよアッピア街道が始まるのである。かつて、往来のもっとも激しかったこの街道は、いま、役割を終えてゆったりと休息しているかのようである。
そんなローマのたたずまいには、歴史と人々の暮らしについての記憶、回想、想い出、追憶がつねに重なりあい、いまと過去、いまと未来がないまぜになっている。その不思議な時のありかたを、ローマだけがもつ時空にあわせて写しだしたのが今回ローマを対象としたハシグラフィーである。ハシグラフィーには不思議なときのありかたがある。
(あおやぎ・まさのり 国立西洋美術館 館長、ギリシア・ローマ考古学者)
HASHIGRAPHY - ROME: Future Déjà Vu - 『ローマ 未来の原風景』作品集 序文より(2009年9月発売)
