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作家からのメッセージ |
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| 『一瞬の永遠』&『未来の原風景』について |
橋村奉臣 |
私たちが日常目にしているのは、見る・聞く・触るといった五感で知覚した「モノ」だが、それは一瞬の仮の姿や形に過ぎない。存在する全ての「モノ」は常に変化し続け、一瞬たりとも同じ姿を留めることはないというのが、「色即是空、空即是色」の理念である。私が常に「モノ」を追いかけるのは、その変化の一瞬が私の感覚を鋭くさせるからだ。私たちは日常生活の中で、知らず知らずのうちに無数の「モノ」とすれ違い、時にはその存在すら気づかないでいる。私たちが見過ごしそうな、または見過ごしてきた日々の中で、私の感性が反応しシャッターを切った「10万分の1秒の出会い」。私はそうした「縁」を大切にする。それは私の作品で共有が可能になった、被写体との「一期一会」なのだ。
そうして出会った「モノ」が、私の感性に強く訴える瞬間がある。その時、私は正面からその「モノ」と向き合う。その姿勢は、比叡山の千日回峰行に取り組む修行僧が、草や木や一切のものは仏になる可能性がある、との教えから、一木一草に仏性を感じ取って祈りを捧げ、普段は見向きもしない「モノ」へ礼拝を繰り返すことで、自分は全ての「モノ」の中に生かされていることを感じ取って行く行為と似ている。私が、たとえば水や石、木、草、ガラス等にレンズを向ける時、それらの姿や形だけではなく、それらの持つ魂の叫び、いわば命の語りかけにシャッターを切るのだ。私はその創作行為を「得魂草木(うこんそうもく)」と名付けた。
一見何の変哲も無い出来事にでさえ、大きな意味を感じる時がある。私の感性に響く「モノ」たちとの一瞬のすれ違いにある、尊い出会いを大切にし、尊い時間をじっくりと共有する。まるで座禅をすることから何かを悟るように、私が「モノ」と本気で向き合った時、何かが閃いてくる。私の撮影行為とは、その一瞬の出会いに反応し、写真という手段でその瞬間に存在するフォルム(形)だけでなく、その息吹と魂をもフイルムに定着させることなのである。その時、私の感性は無限に広がる。
また、私が創るHASHIGRAPHY《ハシグラフィー》の世界は、遠い未来から現在の自分を見つめ直す世界であり、それは今という「時」の価値の尊さを気づかせてくれる。過去は決して過ぎ去った時ではなく、現在を通過点として未来につながっていく礎であり、未来はいずれ過去になるという事実。《ハシグラフィー》は言い換えれば、『未来の原風景』なのかもしれない。
中学生の頃、親友の家でわずか10センチほどの鍾乳石を見せてもらったことを思い出す。その後大学で地学を専攻した彼から、鍾乳洞調査に同行し撮影してほしいと依頼されたのだが、その際に、鍾乳石が1センチ伸びるのに、六十年という長い年月がかかるという話を聞いた。すなわち単純に計算すると、1メートルの長さになるのに六千年もかかるというわけだ。私はその神秘さに驚き、同時に未来の風景にじっと想いを馳せたのを思い出す。一滴一滴の積み重ねでできた鍾乳石。その一粒が欠けても成りえない美しい風景。一瞬一瞬が作り出して来た世界。その時はまだ、この経験が私の作品の「時」に対する意識に、強く影響するとは想像もできなかったが。
過去の芸術家達や、私たちの祖先が遺した「モノ」を見る時、それらが現在に至るまでの時の流れと共に、そこに関わった人々の息吹きや出来事といった、様々な風景が瞬時に私の心に広がる。それをレンズを通して切り取り、イメージを絵画の手法で創り上げる事で、《ハシグラフィー》が生まれた。ギザギザに千切れた端々、重くくたびれた布のような下地には、あたかも時間と歴史が染み込み、擦り切れ、削られ、長い年月をかけて生き残った姿がある。それは過去と現在とのコラボレーションを、未来の視点から描いた風景なのである。私たちの体は今どんなに健康であっても、たとえ不死を切望しても、いずれこの地球上から消えて行く運命だ。しかし、「モノ」の魂はその形として生き残る可能性がある。私は作品に「私の生きた時代の原風景」が宿ることを願い、これから未来にも遺っていくことを願いながら創っているのである。
変わりゆく時の流れ、止まることのない時間。漠然とした不安や、風化していくことへの諦観。しかし、私たちが未来に伝えなければいけない「現在」とは、何だろうか。私たちの心の中に残り、消し去ることのできない軌跡。激動するこの時代の中でさえ、決して忘れることのない過去からの遺伝子。それは、私たちの手で次の世代、また次の世代へと引き継がれていく。今から千年後、何が残っているのだろうか? 何が残されているのだろうか? 今、あなたが向き合っている私の作品から伝わるメッセージ。それはひょっとしたら、あなたが大切にしている『あなた自身の原風景』となり得るかも知れない。 |
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